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言葉より実践

言葉より実践_b0066717_22291555.jpg「美しくあでやかな花でも
 香りのないものがあるように
 よく説かれた言葉も
 実践しない人には実りをもたらさない。」

                (法句経51偈)


重い真理ですね。花は目で楽しませ、香りで癒してくれる薬のようなものです。
お釈迦様は自分のことを「救済者でも預言者でもない、医者か教師のようなものだ」と言っています。良い医者のように病の状況に応じて薬を与え、良い教師のように相手の現状のレベルに応じて理解しやすく説くと言うのです。
しかしその人にとって、どんなに今の症状に良く効く薬であっても飲まなければ効かないし、どんなに分かりやすく有益なアドバイスであっても実践しなければその人のためにならないでしょう。名言や座右の銘などは、実践しないのであれば何にもならない。一休禅師なら糞の役にも立たないと吐き捨てるでしょうね。

でも教えを広める、徳を称えるという意味の観学院称徳という名をいただいた仏弟子は、たとえ一言でも読者の心に気づきの言葉が伝われば幸いに思います。     合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-05-23 22:29 | お釈迦様の言葉
邪(よこしま)な人間の見分け方
旅の途中、釈尊は同行の弟子達に言いました。
「邪な人間をどのように見分けるか知っているか?」
弟子達が「いいえ」と答えると、釈尊は邪な人間の特徴を語りました。

「聞かれればもちろん、聞かれもしないのに他人のあらをあげつらう者。
本当に聞かれ色々と質問された時、控えめに抑えて言うのではなく微に入り細にわたって他人の悪口を言う者、このような人が邪な人である。
聞かれなければもちろん、聞かれても他人の長所を挙げようとしない人。(中略)
聞かれなければもちろん、聞かれても自分の欠点を明らかにしない。本当に聞かれ色々と質問された時、自分の欠点を挙げるが、総てではなく控えめに隠そうとする人。
聞かれればもちろん、聞かれもしないのに自分の長所を吹聴する。本当に聞かれ色々と質問された時、控えめに隠すのではなく何でもかんでも洗いざらいに自分の長所を喋る人、
このような人は邪な人である。」
(『ブッダとそのダンマ』B・R・アンベードカル著、山際素男訳、光文社新書より)

邪という言葉は、日常的にはあまり使いません。正しくないこと、非道なことといった意味ですが、現代ではこの程度のことは当たり前になってしまっているようです。このような人は沢山いるし、私でも他人のあらを論ったり悪口を酒の肴にしている、ということがサラリーマン時代にありました。今でも虫の居所が悪いと、他人の悪口でも言いかねません。人間とは弱いもので、他人を自分より貶めて安心したり、自己弁護したり、さらには差別し虐めたりすることで、邪な喜びすら感じてしまうものなのです。

しかしながら、他人のそういうところを見てしまうと、そのような人と友人にはなる気がしないし、酒も飲めないし、まして仕事はしたくないと思うのもまた当然でしょう。愛しているはずの相手でさえ、信用できない、許せないと感じるかもしれません。

お釈迦様が修行者達である弟子達に、あえて邪な人間の見分け方を問うたのは、それが誰の心にも潜んでいて、時々現れてくるものだったからに違いないと、私は思います。悪魔とはこういうことの比喩でしょう。正しく生きようとしている人の邪魔をしに出てくるのです。日々たとえ3分でも瞑想して、こうした心の動きを捉え反省することで、誰でも正しく生きることができるというのが、お釈迦様の教えなのです。    合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-05-21 13:23 | お釈迦様の言葉
最上の幸せとは
最上の幸せとは_b0066717_1261098.jpg 
「健康は最上の利益(めぐみ)
 満足は最上の財産(たから)
 信頼は最上の縁者(えにし)
 心の安らぎこそは 最上の幸せである」

              (法句経第204偈)


今、このお釈迦様の言葉の意味が、しみじみと感じられる。会社を辞めてもうすぐ六年。あっという間の出来事に思えるが、この間世間はIT革命だの、ネットバブルだのと騒がれた。
ケータイは3Gになり、子供の頃のSF映画やTVで見たような携帯型のテレビ電話さえ利用されるようになっている。インターネットも大容量・常時接続のブロードバンドになり、このブログのように何十万人という個人が自由活発に情報発信している世の中になった。逆に情報は世界中から個人のパソコンに入ってくるようにもなった。

こんな時代、世の中だからこそ、ほんとうの幸せとは何んだ?と、たまには振り返ってみる余裕が必要だと思う。お釈迦様も人間だった。この法句経の言葉は、2500年前も現代も変わらない人間としての根源的な幸せを、思い起こしてくれるような気がする。

万人の願いは同じ。。。だとしたら、慈悲の心でお互いを見つめながら、幸せに暮らして行こうよ。    合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-05-07 01:29 | お釈迦様の言葉
今、このとき行うべき大切なこと

「なすべきことを、なおざりにして、なすべからざることをなす。
 遊びほうけて放逸な(今大切なことに気づかない)者には、煩悩が増大する」

     (法句経第292偈、『原訳・法句経』A・スマナサーラ著より)


耳が痛い。お釈迦様も親の小言も、同じようなものですね。
歳をとったお陰で親も先生や上司にも小言を言われなくなりましたが
自分としては全く進歩していないから、困ったものです。
いまだにやるべきことをやらずに、どうでもいいことに時間を費やし、
かえって悩みを増しています。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。
 怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい」


お釈迦様最期の遺言(大パリニッバーナ経)です。

「不放逸であれ」とは、お釈迦様のよく説かれた言葉ですが
パーリ語原典では「アッパマーダ」、その意味するところは
「そのときそのときに、何をするか分かっていること」です。

反対に「パマーダ」とは「溺れること」「過度に依存すること」
「心が酔っていて自分が何をしているのか分からない状態」を言うのだそうです。
(前出『原訳・法句経』より)

人生(現世)は、1度きり、誰にも平等に有限です。
1年も1ヶ月も1週間、1日1時間1分1秒、全て限られた時間の流れの中で
今日も明日も明後日も、無駄な時間を費やして残りの人生を食い潰しますか?

                                     合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-04-13 17:48 | お釈迦様の言葉
いろはうた
いろはうた_b0066717_124735.jpg
色は匂へど散りぬるを
わが世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢みじ酔ひもせず



弘法大師空海作と伝えられる「いろはうた」
旧仮名遣い50音図のいろは47文字を
一つづつ使って美しい歌が出来上がった。
これだけでも凄いものだけど
実はこれ涅槃経というお経の中にある
雪山偈という詩の日本語訳なのである。

雪山とは、ヒマラヤのことであり
ここで修行していた雪山童子と呼ばれた行者が
仏教の無常観を表した詩なのだ。原文は

諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽


意味は

この世のあらゆる存在と現象はすべて永遠のものではない
これこそが「生じたものは必ず滅びる」という教えなんだ
生じたものが滅び、滅び去った後にくる
本当の静けさこそが、求むべき真の喜びなんだ

前半だけを見ると、捨て鉢な間違った無常感が生まれてしまう。
しかし後半を見れば、生きている間に何をするかが大切なことが分かる。

色即是空
空即是色


すべての形あるものや現象は「空(くう)」である。
でもその空から、すべてのかたちあるものや現象が生じる。

色即是空、空即是色はセットなのだということを忘れてはならない。
無常感ではなく、無常観。観は「よく見ること」だ。
浅き夢みじ酔いもせず
「人間として生きている意味を考える」ことが大切なんだ。

                                合掌 観学院称徳
いろはうた_b0066717_1297100.jpg
# by kangakuin | 2005-04-09 12:11 | 諸尊の言葉