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人を導き、悩ますもの

神いわく
「世間(人間)は何ものによって導かれるのか?
 何ものによって悩まされるのか?
 いかなる一つのものに、一切のものが従属したのであるか?」

尊師いわく
「世間は心によって導かれる。
 世間は心によって悩まされる。
 心という一つのものに、一切のものが従属した。」


(ブッダ『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤI 中村 元訳 岩波文庫より)


人を導くものは、自分自身の「心」。それ以外は如何なるものも、自分を導いてはくれません。先生や先輩、本から学ぶことはできても、自分自身の心が納得し動いてくれないと、何も変わらないのです。そして人は自分自身の心によって、悩まされることにもなります。すべてのものは、心に従属して存在している、というのが、お釈迦様の悟ったことの基本です。だからこそ、自分自身の心を治めるということが、私たちの生き方の基本にもなるのです。  

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-08-05 22:17 | お釈迦様の言葉
人の命も自分の命も大切に!「日常的な殺人」の罪

もう2ヶ月以上も前のこと、車が高校生の列に突っ込んで3人が死亡するという
事故がありました。世の中は事故や事件に満ちており、世間の記憶からは
忘れられています。しかしご遺族の悲しみを癒すにはまだまだ時間が足りませんね。

事故では中学を卒業して希望を胸に高校に入学した1年生ばかりが亡くなっています。
ご両親やご家族のご心痛を思うと、佛弟子が言うのもなんですが、
神も仏もないのか?と思ってしまう。
(ブッダは我々が考えるような神や仏のようなものを認めてはいないけど)

酔っぱらいの上に居眠り運転の若者のしでかした顛末。
殺意がないので殺人罪にならないというのですが、
まったく関係のない将来ある3人もの命を奪った罪は、
通常の怨恨殺人より重いのではないかと思います。

「すべての生きとし生けるもの(一切衆生)が安穏であれ、幸せであれ」
と願うのが、ブッダの仏教の基本であり、その裏に不殺生戒という
最も重視される人として守るべき戒律があります。

しかし人は誰でも、一切衆生を傷つけ命を奪う可能性があるのです。
車を運転していれば、いとも容易く犬や猫、人をも殺すことができる。
暴走するバイクや自転車が人を傷つけ殺すこともよくあることです。
いや歩いているだけでも駅の階段やプラットホームで、
他人の肩をちょっと軽く押してやれば、人を殺すことは容易いでしょう。
恨み辛みでグチグチに悩んだ末に殺人に及ぶことは誰にもできることではありませんが、
何の気なしに殺すことは誰にでもできることなのです。

ニュースはいつも「日常的な殺人」に満ちています。


「人もし生ける命あるものを害い、
 また虚言をかたり、
 この世にて与えられざるを盗り、
 他の妻女を犯し、
 さらにまた 穀酒・果酒に飲み耽り溺れるならば、
 この世において(自滅の)根を掘るものなり。」

 (『法句経』第246、247偈)

仏教の五戒です。これらの行いは、自らを滅ぼすのです。
今回の事故では、3人の高校生が亡くなりましたが、
加害者もまた自らを殺したも同然なのです。
法的な償いには終わりがあるかもしれませんが、経済的にも心の問題としても
「日常的な殺人」の罪の償い~重荷を背負っての生き地獄が一生涯続くのですからね。


「人の生をうくるはかたく、やがて死すべきものの、
 いま生命あるは在り難し。」

 (『法句経』第182偈)

様々な縁があって生まれ、また多くの人々の縁によって大切に育てられてきた人。
この人が今あるということは、並たいていのことではない。
在り難いこと、つまり今このように存在することすら不思議なことなのです。
だからこそ生命は大事。自分の命も、他人の命も大切にしなければならないよ、
ということです。

被害者の方々のご冥福をお祈りすると共に、
ひとり一人が車を運転するときも、歩くときも、
働いているときも、遊んでいるときも、
目覚めているときも、ねむっているときも、
くれぐれも殺さないように気をつけましょう。

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-08-03 12:04 | 称徳・雑記
人は自ら犯した悪業に追い詰められる~親、大人の責任

「すでに行なってしまった悪業は、搾りたての牛乳のようにすぐには固まらず、

 反省の糧となることは少ない。だけどその身に染まった悪業の種は、

 灰に覆われた火種のようにいつまでも燻り続けて、その人を追い詰めていくのだ。」


                                       (『法句経』 第71偈)



人は誰でも何の気なしに悪いことをしてしまう。気にもとまらないことだから反省することもありません。そしてまた新たな罪を犯す。だんだん慣れて行って、やがては法を犯すような大きな犯罪をしでかして、自らを破滅させてしまうこともあります。陰湿で粗暴な少年犯罪や幼児虐待、少女監禁など、世の中を暗くしている犯罪者は、一朝一夕でつくられることはないのです。周囲の人々が、小さな悪業に目をつぶっているうちに、その灰に覆われた火種を徐々に大きく成長させていき、ある時ぱっと炎を上げて業火となって燃え上がる。彼は自ら為した悪に追い詰められるのです。彼らにとって地獄とは、あの世のことではなく今生きている、この世のことなのです。怖いですねえ。子供に真の愛情を感じるのであれば、正しい道に導くのが親や教師、大人の役割だと思うのですが、曲がった愛情にとらわれて見えなくなり、子供たちを悪の道、破滅の道に追い込んでいく。そういう親や教師、大人が多いことも事実です。ワイドショーなどで騒がれる事件を他人事と思っていてはいけません。  

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-07-30 13:25 | お釈迦様の言葉
慈しみとあわれみもまた、道場である!
慈しみとあわれみもまた、道場である! _b0066717_15293948.jpg
今回もまた維摩経の続き。いよいよ仏教の本質に入ります。


「人に楽しみを与える情け深さは(慈)は、すべての人に対して
 平等であるから道場であるし、人の苦しみを除くあわれみ(悲)も
 人のために受ける苦しみによく堪え忍ぶから道場であるし、
 人の喜びを喜ぶこと(喜)も、仏の教え(法)を味わい楽しむもの
 となるから道場であるし、人に対して平等であることも(捨)も
 愛憎のいずれをも断ち切るから道場である。」 石田端麿訳



聖徳太子が重視した理由も分かるような気がします。
お経はまだまだ続きますが、この辺にしておきます。
慈悲喜捨は仏教で最も大切な利他の心であり、しかも思っているだけでなく
実践行動によってはじめて価値を持つものです。
維摩さんのいう慈悲や喜捨は、これはもう生易しいものではありません。
在家の維摩さんが、出家の菩薩達に言っていることだから、なおさら
出家には厳しく聞こえます。
だからこそ「道場なのだ」と言い切っているのでしょうね。

自己の悟りを目指すだけでなく、自ら歯を食い縛って積んだ功徳を廻向して
他者をも救いたいという大乗仏教の理想と、菩薩(修行者)の決心は
素晴らしいものだと思います。
拙僧などまだまだ修行の道遠し、ということですか。

せめて合掌九拝 読者の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-07-23 15:30 | 諸尊の言葉
道場って、どこのことですか?

わたくしが、「道場って、どこのことですか?」とたずねますと、彼はこう答えて言いました。

「清純な心(直心)が道場なのだ。うそいつわりがないから。
 また心を決めて(決心)修行することも道場なのだ。
 よく物事をやり遂げることができるから。
 そして心に深く道を求めること(深心)も、功徳を増しふやしていくから、道場だし、
 さとりを求める心(菩提心)も、誤り疑うことがないから、道場なのだ。(つづく)」
 維摩(ゆいま)経 石田瑞麿訳


維摩経は、在家の菩薩である維摩居士を主人公にしたお経。文殊菩薩など出家の修行者である菩薩が維摩さんに質問し、それに答える形式でできています。お寺で読まれることは通常ありませんが、日本では最も古くから知られていたお経です。それは出家することなく、仏法を根本理念とした国づくりを目指した聖徳太子が重視したものだからです。太子は『維摩義疏』という注釈書まで書いています。ここでいう道場とは修行の場のことで、平家物語の冒頭に出てくる祇園精舎のような精舎のこと。当時は本尊はありませんが、現代風に言えばお寺や教会のことです。しかし維摩居士は在家ですから、精舎に住んでいるわけではないのです。

彼は「出家者が集まった寺だけが修行の場ではないぞ。どんな所にいたって、私がいる所が道場だ。心のある所が道場だ」というのです。初期のキリスト教ではイエスも「神は心の中にある」と言っていたのです。この教えは後に権威を持った教会に無視・圧殺されてしまいました。仏教も五十歩百歩ですね。ほんとうは日々の生活の中で善く生きることこそ、修行なのです。寺に行くことだけ、お経を読むことだけ、瞑想・座禅することだけが修行ではありません。在家者こそほんとうの修行の場にいるといえるかもしれませんね。



☆日々の生活の中に道場がある!☆

維摩経は、在家の菩薩である維摩居士を主人公にしたお経でしたね。

わたくしが「道場って、どこのことですか?」とたずねますと、彼はこう答えて言いました。

「清純な心(直心)が道場なのだ。うそいつわりがないから。
 また心を決めて(決心)修行することも道場なのだ。
 よく物事をやり遂げることができるから。
 そして心に深く道を求めること(深心)も、功徳を増しふやしていくから、道場だし、
 さとりを求める心(菩提心)も、誤り疑うことがないから、道場なのだ。(つづく)」維摩経 石田瑞麿訳

と、ここまでが前回のご紹介。在家、出家を問わず基本的な仏教徒の出発点であり、目標でもあることを答えています。悟りを求める心を起こすことで、日々の生活そのものが修行となり、生活の場が即道場となるというのが、維摩さんの主張です。

「また施しも、返礼を期待しないから道場だし、戒めを守ることも、願いがかなうから道場だし、堪え忍ぶことも、世のすべての人に対して心に障りがないから道場だし、努力に努力を重ねることも、怠り退くことがないから道場だし、心静かな内観(瞑想)も、心が調い和らぐから道場だし、智慧も、一切のものをそのあるとおりに見るから道場なのだ。(さらにつづく)」 維摩経 石田瑞麿訳

これは、有名な「六波羅蜜」を言われたところです。「波羅密」とは、到彼岸~彼岸に至る方法、つまり仏教の目標である「涅槃寂静」の境地に至るための実践徳目です。「涅槃」というと一般には死ぬこと、往生成仏のことだと思われるかもしれません。それは完全なる涅槃と言われるものではありますが、原始仏教では、涅槃は悟りの境地を言うのです。拙僧が、ブログのサブタイトルで「願わくば衆生と共に彼岸に至るのだ!」と言っているのもこのことで、即身成仏=悟りを指しており勿論死ぬことではありません。

六波羅蜜
一.布施(ふせ)波羅密=檀(だん)波羅密とも呼ばれる。自分の財産を施したり、真理を教えて迷える人を導いたり、人の恐怖を除いて安心を与えたりすること。維摩さんが言われるように、返礼を期待しないところが大切です。お布施をあげるからオレの願いを聴いて叶えてくれと言うのは、布施という徳を積んだことにはならず、従って願いが叶えられることはないのです。仏様に取られっぱなしですよ。気をつけましょう! また、お金や物を寄付することだけが布施でもありません。優しい言葉でも笑顔でも、それが他者のためになるのものであればよいのです。

二.持戒(じかい)波羅密=規則を守り、甘えず自分を律して生活すること。
拙僧も出家するとき、受戒の儀式に参加しました。これは命令として神仏から与えられるものではなく、自ら戒を守りますとお誓いするものです。残念ながら坊主でも強盗になって郵便局に押し込むような者がいます。どのような事情があるにせよ、このような不心得者のことを破戒坊主というのです。彼も今まで積んできた徳をすべて支払った上に、不徳という借金まで背負ってしまったことになります。あの世に行かずともこの世が地獄です。怖いですね。

三.忍辱(にんにく)波羅密=降りかかるあらゆる苦難に動ぜず、耐え忍ぶこと。この段階になると、拙僧はまだコメントできる立場にありません。降りかかる悪魔や魔女?と日々戦っているのです。応援してね。

四.精進(しょうじん)波羅密=いつでも、仏道を極めようとする修行を怠らないこと。拙僧は、まだまだ。

五.禅定(ぜんじょう)波羅密=瞑想などにより精神を統一し、いつも心を穏やかな状態にすること。まだまだ。

六.智慧(ちえ)波羅密=般若波羅密とも呼ばれる。真理を見極め、悟りを完成させる知恵を身につけること。まだまだ。


ここまで修行して至ることができる涅槃寂静は、仏教の基本命題である「三法印」の一つです。仏教は、お釈迦様の教えをもとにして、二千五百年に渡って多くの仏教者達が発展させてきたもので、数え切れないほどの教えの集大成です。そこで本物と偽物を見分ける印(しるし)を三つの命題として提示しています。これを三法印といいます。有名な「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」というキーワードに反するものでなければ、仏教の教えとして認めようというのです。

諸行無常
「一切の形づくられたものは無常である」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。(法句経第277偈)

諸法無我
「一切の事物は私ではない」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。 (同279)

涅槃寂静
諸行無常と諸法無我という二つの真理を体得し、欲に囚われた執着心を捨て去れば、本当の平安な境地が訪れるという真理

これに「一切皆苦」を加えて四法印というときもあります。
「一切の形づくられたものは苦しみである」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。 (同278)

長くなってしまいましたね。本日はここまでにします。
とにかく「日々の生活の中に道場がある」ということが本日の教えです。

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-07-16 14:19 | 諸尊の言葉