ご無沙汰でした

最近は、以下のブログで毎日更新しております。
ご覧いただければ幸いです。


そうだ坊主になろう!~ヒロ伊藤流仏弟子修行
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合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2006-03-17 00:23 | 称徳・雑記
それを言っちゃあおしまいよ~怒りと言葉

「言葉の怒りを守りて、言葉を慎むべし。

 言うべからずを棄てて、言うべきを言うべし。」


                          (『法句経』第232偈)



ついつい小言の一つも言いたくなる時がある。
しかし一時の激情に駆られて怒りを言葉にして発してはならない。
そうならないようよく守り防ぎ、言葉を慎まなければならない。
言ってはならない言葉を棄てて、正しく穏やかな言葉で言いなさい。


柴又の帝釈天・経栄山題経寺の檀家であった信仰心の篤いはずの
フーテンの寅さんの実家「くるまや」では、
久しぶりに帰った寅さんとおいちゃんや隣のタコ社長がよくケンカをしていましたが、
そのきっかけが「それを言っちゃあおしまいよ」でした。
心の底では相手を気遣う家族なのですが、ちょこっと発した言葉から
怒りが生じ、投げ交わされる言葉の怒りがこうじて、最後は暴力沙汰になり、
寅さんはまたまた家出するというお定まりのシーンが毎回必ず繰り返されました。

山田洋次監督は、何故こうまで執拗に繰り返したのか?
それは、またかと笑っている私たち誰もが、
同じようにそういうシーンを繰り返しているからではないでしょうか。
些細なことでもそれが言葉になってしまうと、幸せな人間関係を破壊することもあるのです。

「生まれるとすぐに、人の口の中には斧が生じる」と、お釈迦様。だからこそ
「言葉の怒りを守りて、言葉を慎むべし。
 言うべからずを棄てて、言うべきを言うべし。」と
常に気をつけなければならないと教えているのです。

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-11-29 17:42 | お釈迦様の言葉
賢者とは?~誰でも自分をアホとは思わない

「もしも愚者が愚であると知れば、すなわち賢者である。

 愚者であってしかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる。」


 (『ダンマパダ 法句経』第63偈 中村 元訳)



こんなに有名な言葉、真理も多くはないでしょう。
それが法句経という釈尊の説いた真理に近いとされる最古層の
仏典から発すると知らない人でも、知っているし、理解できる。

しかしこんなに簡単で、しかも実践が難しい真理も少ないようです。
分かってはいても、誰でも自分をアホとは思わないし、思いたくもない。
馬鹿にされたり、見下されていると感じると腹を立てる人が多いのが
その証拠です。論争をすれば勝ちたいと思う。勝ち負けの問題ではないはずが
いつも間にか議論はその本質を離れて、どちらがアホかの決定戦に変質していく。


「もしも愚者が愚であると知れば、すなわち賢者である」に
あやかりたいのか、本心からか、仏教者や、特に高僧たちは自分を
「愚者」「凡夫」、果ては坊主頭まで持ち出して「愚禿」などとまで呼んで、
自分を蔑み、下に置こうとする。相当我の強い宗派の開祖たちでさえも、
競って自分を愚者扱いしていて、自虐的ですらあります。

でもこれは、ちょっと間違えれば
「愚者であってしかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる」と
なってしまうのです。

要は、お釈迦様の言葉の真意は「謙虚であれ」ということだと思います。
常に自分自身を、自分の言動を省みて、その元となった自分の心をよく見つめ、
本心から自分は思い違いしていないか、間違っていないか、
愚かな言動や愚かな心を持っていないか検証して、正していくことが必要だよ、
と言うことではないかと思います。

けっして、自虐的になったり、自分をアホ扱いして認めない、という態度を
良しとしているわけではありません。むしろ
「自分をもっともっと大切にしなさい。そして自分を大切に思うように
 他人や生きとし生けるものも大切にしなさい」ということなのです。

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-11-03 23:45 | お釈迦様の言葉
歳を重ねるだけで偉くなれるのか?

「頭が白髪になったからといって、

 このことだけで彼は、長老(おさ=知恵のある尊敬に値する人)

 とはいえない。これはただ空しく老いただけの人と呼ばれる。」

 (『法句経』第260偈)


特に東洋では孔子の儒教をはじめとして「長幼の序」が生きていて、年上の人を敬うことが美徳というか、人として当然のこととされています。そこで年長者が年少者を疎んじたり馬鹿にしたり、年功序列の結果として上位にあるものが、部下を疎んじたり馬鹿にしたりして、こき使う。先輩は後輩を奴隷のように考え、人格さえ無視することが、現代の社会、職場、学校、地域やコミュニティなどで横行しています。

前のバブル崩壊で企業や日本経済を未曾有の危機に陥れた責任のある大企業や銀行の経営者達が、地位にしがみついて老害をさらしつつ損失を拡大し、中には歴史ある大会社を倒産にまでできたのは、年長者や目上の者を批判、弾劾できない、我が国社会の欠陥にも思えます。

しかし「これは間違いだ。歳を重ねただけで彼は長老とはいえない」というのが、お釈迦様の教えです。「そんな人は、ただ空しく老いただけの人だ」というのです。キビシイですね。ただのアホだというのだから。最近私もだいぶ白髪が多くなってきたので、他人事とは思えません。もっとも孔子様の長幼の序だって、礼儀をわきまえ下から上を敬えという意味であり、上から下を疎んじたり馬鹿にしたりしてよいということではありません。むしろ君子は「仁(=博愛、慈しみ)」をもって、下にやさしくしなければならないのです。「老いては子に従え」とまで言い残しています。これは年齢の上下だけでなく、地位の上下にも当てはまりますからね。

人間、若いうちは勉強しなければだめ。そして歳をとればとるほど、勉強しないとだめなようです。それではじめて「知恵のある尊敬に値する人=長老」と呼ばれる資格があるのです。人生の後輩達に嫌われ見捨てられないよう、徳のある人を目指しましょう。うかうか歳ばかりとっていられませんよ。高齢化社会の今だからこそ、これは大切な教えになっているのかもしれません。もちろん机にしがみついて本を読むだけが勉強ではありませんので、ご注意くださいね。

読者各位のご健闘をお祈りして  合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-10-15 14:02 | お釈迦様の言葉
何故「心」があるのか?「心」はどこから来たのか?

【ご質問】
すごく不思議です。
人間には何故心があるのでしょうか?
 心はどこから来たのでしょうか?
 何故この心にこの体があるのでしょうか?
 お釈迦様はどのように答えておられますか?


【お答えになるかどうか】
何と難しいというか、大上段からの直球の質問ですね。寺もっちゃん。


「あらゆるもののなかで、先立つものは心である。
 あらゆるものは、こころを主とし、心によってつくりだされる。
 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。
 荷車を引く牛に車輪がついていくように。」

 (『法句経(ダンマパダ)』第1偈 A・スマナサーラ訳より)


仏教は、欧米では19~20世紀初めにかけて西欧列強によるアジアの植民地化が進展し交流が盛んになることで伝えられ、宗教としてではなく「心の科学」として捉えられていました。キリスト教神学と比べて、その先進性と精密さを持った体系的学問として、しかもイエス様より500年も前の、ギリシャの哲学者たちや中国の孔子などとほぼ同時代に生きた“ゴータマ・ブッダ”お釈迦様の存在が驚きの目で迎えられました。考古学・歴史学者、文献史学者、文化人類学者は当然として、ニーチェのような哲学者やユングのような心理学者、シュタイナーのような教育学者・神智学者も強い影響を受けたようです。勿論、キリスト教から見れば彼らは異端扱いでしたが。現代では中共のチベット侵攻により亡命したダライ・ラマなどによるチベット密教や禅宗をはじめとした我が国仏教の布教が欧米でインテリ層に受け入れられ、スピリチュアルやニューエイジといった新しい精神・信仰のカタチにもまた仏教の強い影響が認められます。80年代まで生きた精神分析のラカンが、「禅マスター」と呼ばれていたそうです。

横道にそれましたね。それではご質問へのお答えと行きましょう。

人間には何故心があるのか? → 心があるから人間なのです。
何故この心にこの体があるのか? → この体があるから、この心が生まれたのです。
これは、十二縁起(=無明→行→識→名識→六処→触→受→愛→取→有→生→老死)で明らかです。赤ちゃんが生まれて成長し、やがて老いて死ぬまでの、人間の一生を考えれば分かりやすいと思います。まず体が生まれ、いろいろな刺激を受けながら心が育てられ、残念ながら煩悩が生じ、苦も現れていくのです。十二縁起は長くなるので、そのうち機会があればご説明します。

では、心はどこから来たのでしょうか?
人間は、多くの生物の中で唯一、その心の働きによって、過去・現在・未来の三世という時間軸を認識できるものです。過去をふり返って思い出に浸り、未来のあることを信じて生きることができます。他の動物にも記憶はありますが、彼らの意識の中には今しかありません。人もほんとうは他の動物と同じなのですが、意識を心に進化させて、自他を区別する自我をつくり、時間軸を意識しながら、文化文明を発達させることができました。が、同時に苦悩と共に生きることにもなったのです。これも十二縁起ですね。

では、心とは何でしょうか?
仏教では「心は、“心”と“意”と“識”という三つの働きからできている」と考えます。「心」は主体、自己自身、「我思う、故に我在り」の「我」ですね。「意」は考えること、「我思う」働きです。「識」は判別・分別すること、「故に我在り」と決める働き。前述のラカンは「我、思わぬ故に我あり」と言ったそうですが、思わぬだけで同じことです。
さらには、心を八識=顕在心(眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識)+潜在心(末那識+阿羅耶識)に分けて考えていきます。顕在心は感覚器官から得られるものと、そこから生まれる意識です。潜在心、心理学でいう潜在意識の末那識は「無意識の自己愛の領域」で、煩悩である自我意識(我痴、我見、我慢、我愛)が隠されており、阿羅耶識は「根源的な心の作用」で、末那識から刺激を受けながら、生きているという意識を一瞬一瞬つなぐ意識ということで、人間の考え方や行動を生み出す基本です。ここに仏性があり、悟り(覚り)を得ると、智慧(=般若=仏の悟った境地)が現れます。このように煩悩を捨て去り、心を静かに治めて阿羅耶識を目覚めさせ、善に保つのが本来の仏教の目標です。

もっとも「無自性」~心という実体はなく「空」だというのが、仏教の究極の段階の教えです。この辺は般若心経の現代語訳でも読んでください。


「心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するままにおもむく。
 その心は制御(コントロール)したほうがよい。
 よく制御した心は、安らぎをもたらす。」

 (『法句経(ダンマパダ)』第35偈 A・スマナサーラ訳より)


合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-09-16 16:44 | よくある質問お答え
人を導き、悩ますもの

神いわく
「世間(人間)は何ものによって導かれるのか?
 何ものによって悩まされるのか?
 いかなる一つのものに、一切のものが従属したのであるか?」

尊師いわく
「世間は心によって導かれる。
 世間は心によって悩まされる。
 心という一つのものに、一切のものが従属した。」


(ブッダ『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤI 中村 元訳 岩波文庫より)


人を導くものは、自分自身の「心」。それ以外は如何なるものも、自分を導いてはくれません。先生や先輩、本から学ぶことはできても、自分自身の心が納得し動いてくれないと、何も変わらないのです。そして人は自分自身の心によって、悩まされることにもなります。すべてのものは、心に従属して存在している、というのが、お釈迦様の悟ったことの基本です。だからこそ、自分自身の心を治めるということが、私たちの生き方の基本にもなるのです。  

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-08-05 22:17 | お釈迦様の言葉
人の命も自分の命も大切に!「日常的な殺人」の罪

もう2ヶ月以上も前のこと、車が高校生の列に突っ込んで3人が死亡するという
事故がありました。世の中は事故や事件に満ちており、世間の記憶からは
忘れられています。しかしご遺族の悲しみを癒すにはまだまだ時間が足りませんね。

事故では中学を卒業して希望を胸に高校に入学した1年生ばかりが亡くなっています。
ご両親やご家族のご心痛を思うと、佛弟子が言うのもなんですが、
神も仏もないのか?と思ってしまう。
(ブッダは我々が考えるような神や仏のようなものを認めてはいないけど)

酔っぱらいの上に居眠り運転の若者のしでかした顛末。
殺意がないので殺人罪にならないというのですが、
まったく関係のない将来ある3人もの命を奪った罪は、
通常の怨恨殺人より重いのではないかと思います。

「すべての生きとし生けるもの(一切衆生)が安穏であれ、幸せであれ」
と願うのが、ブッダの仏教の基本であり、その裏に不殺生戒という
最も重視される人として守るべき戒律があります。

しかし人は誰でも、一切衆生を傷つけ命を奪う可能性があるのです。
車を運転していれば、いとも容易く犬や猫、人をも殺すことができる。
暴走するバイクや自転車が人を傷つけ殺すこともよくあることです。
いや歩いているだけでも駅の階段やプラットホームで、
他人の肩をちょっと軽く押してやれば、人を殺すことは容易いでしょう。
恨み辛みでグチグチに悩んだ末に殺人に及ぶことは誰にもできることではありませんが、
何の気なしに殺すことは誰にでもできることなのです。

ニュースはいつも「日常的な殺人」に満ちています。


「人もし生ける命あるものを害い、
 また虚言をかたり、
 この世にて与えられざるを盗り、
 他の妻女を犯し、
 さらにまた 穀酒・果酒に飲み耽り溺れるならば、
 この世において(自滅の)根を掘るものなり。」

 (『法句経』第246、247偈)

仏教の五戒です。これらの行いは、自らを滅ぼすのです。
今回の事故では、3人の高校生が亡くなりましたが、
加害者もまた自らを殺したも同然なのです。
法的な償いには終わりがあるかもしれませんが、経済的にも心の問題としても
「日常的な殺人」の罪の償い~重荷を背負っての生き地獄が一生涯続くのですからね。


「人の生をうくるはかたく、やがて死すべきものの、
 いま生命あるは在り難し。」

 (『法句経』第182偈)

様々な縁があって生まれ、また多くの人々の縁によって大切に育てられてきた人。
この人が今あるということは、並たいていのことではない。
在り難いこと、つまり今このように存在することすら不思議なことなのです。
だからこそ生命は大事。自分の命も、他人の命も大切にしなければならないよ、
ということです。

被害者の方々のご冥福をお祈りすると共に、
ひとり一人が車を運転するときも、歩くときも、
働いているときも、遊んでいるときも、
目覚めているときも、ねむっているときも、
くれぐれも殺さないように気をつけましょう。

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-08-03 12:04 | 称徳・雑記
人は自ら犯した悪業に追い詰められる~親、大人の責任

「すでに行なってしまった悪業は、搾りたての牛乳のようにすぐには固まらず、

 反省の糧となることは少ない。だけどその身に染まった悪業の種は、

 灰に覆われた火種のようにいつまでも燻り続けて、その人を追い詰めていくのだ。」


                                       (『法句経』 第71偈)



人は誰でも何の気なしに悪いことをしてしまう。気にもとまらないことだから反省することもありません。そしてまた新たな罪を犯す。だんだん慣れて行って、やがては法を犯すような大きな犯罪をしでかして、自らを破滅させてしまうこともあります。陰湿で粗暴な少年犯罪や幼児虐待、少女監禁など、世の中を暗くしている犯罪者は、一朝一夕でつくられることはないのです。周囲の人々が、小さな悪業に目をつぶっているうちに、その灰に覆われた火種を徐々に大きく成長させていき、ある時ぱっと炎を上げて業火となって燃え上がる。彼は自ら為した悪に追い詰められるのです。彼らにとって地獄とは、あの世のことではなく今生きている、この世のことなのです。怖いですねえ。子供に真の愛情を感じるのであれば、正しい道に導くのが親や教師、大人の役割だと思うのですが、曲がった愛情にとらわれて見えなくなり、子供たちを悪の道、破滅の道に追い込んでいく。そういう親や教師、大人が多いことも事実です。ワイドショーなどで騒がれる事件を他人事と思っていてはいけません。  

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-07-30 13:25 | お釈迦様の言葉
慈しみとあわれみもまた、道場である!
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今回もまた維摩経の続き。いよいよ仏教の本質に入ります。


「人に楽しみを与える情け深さは(慈)は、すべての人に対して
 平等であるから道場であるし、人の苦しみを除くあわれみ(悲)も
 人のために受ける苦しみによく堪え忍ぶから道場であるし、
 人の喜びを喜ぶこと(喜)も、仏の教え(法)を味わい楽しむもの
 となるから道場であるし、人に対して平等であることも(捨)も
 愛憎のいずれをも断ち切るから道場である。」 石田端麿訳



聖徳太子が重視した理由も分かるような気がします。
お経はまだまだ続きますが、この辺にしておきます。
慈悲喜捨は仏教で最も大切な利他の心であり、しかも思っているだけでなく
実践行動によってはじめて価値を持つものです。
維摩さんのいう慈悲や喜捨は、これはもう生易しいものではありません。
在家の維摩さんが、出家の菩薩達に言っていることだから、なおさら
出家には厳しく聞こえます。
だからこそ「道場なのだ」と言い切っているのでしょうね。

自己の悟りを目指すだけでなく、自ら歯を食い縛って積んだ功徳を廻向して
他者をも救いたいという大乗仏教の理想と、菩薩(修行者)の決心は
素晴らしいものだと思います。
拙僧などまだまだ修行の道遠し、ということですか。

せめて合掌九拝 読者の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-07-23 15:30 | 諸尊の言葉
道場って、どこのことですか?

わたくしが、「道場って、どこのことですか?」とたずねますと、彼はこう答えて言いました。

「清純な心(直心)が道場なのだ。うそいつわりがないから。
 また心を決めて(決心)修行することも道場なのだ。
 よく物事をやり遂げることができるから。
 そして心に深く道を求めること(深心)も、功徳を増しふやしていくから、道場だし、
 さとりを求める心(菩提心)も、誤り疑うことがないから、道場なのだ。(つづく)」
 維摩(ゆいま)経 石田瑞麿訳


維摩経は、在家の菩薩である維摩居士を主人公にしたお経。文殊菩薩など出家の修行者である菩薩が維摩さんに質問し、それに答える形式でできています。お寺で読まれることは通常ありませんが、日本では最も古くから知られていたお経です。それは出家することなく、仏法を根本理念とした国づくりを目指した聖徳太子が重視したものだからです。太子は『維摩義疏』という注釈書まで書いています。ここでいう道場とは修行の場のことで、平家物語の冒頭に出てくる祇園精舎のような精舎のこと。当時は本尊はありませんが、現代風に言えばお寺や教会のことです。しかし維摩居士は在家ですから、精舎に住んでいるわけではないのです。

彼は「出家者が集まった寺だけが修行の場ではないぞ。どんな所にいたって、私がいる所が道場だ。心のある所が道場だ」というのです。初期のキリスト教ではイエスも「神は心の中にある」と言っていたのです。この教えは後に権威を持った教会に無視・圧殺されてしまいました。仏教も五十歩百歩ですね。ほんとうは日々の生活の中で善く生きることこそ、修行なのです。寺に行くことだけ、お経を読むことだけ、瞑想・座禅することだけが修行ではありません。在家者こそほんとうの修行の場にいるといえるかもしれませんね。



☆日々の生活の中に道場がある!☆

維摩経は、在家の菩薩である維摩居士を主人公にしたお経でしたね。

わたくしが「道場って、どこのことですか?」とたずねますと、彼はこう答えて言いました。

「清純な心(直心)が道場なのだ。うそいつわりがないから。
 また心を決めて(決心)修行することも道場なのだ。
 よく物事をやり遂げることができるから。
 そして心に深く道を求めること(深心)も、功徳を増しふやしていくから、道場だし、
 さとりを求める心(菩提心)も、誤り疑うことがないから、道場なのだ。(つづく)」維摩経 石田瑞麿訳

と、ここまでが前回のご紹介。在家、出家を問わず基本的な仏教徒の出発点であり、目標でもあることを答えています。悟りを求める心を起こすことで、日々の生活そのものが修行となり、生活の場が即道場となるというのが、維摩さんの主張です。

「また施しも、返礼を期待しないから道場だし、戒めを守ることも、願いがかなうから道場だし、堪え忍ぶことも、世のすべての人に対して心に障りがないから道場だし、努力に努力を重ねることも、怠り退くことがないから道場だし、心静かな内観(瞑想)も、心が調い和らぐから道場だし、智慧も、一切のものをそのあるとおりに見るから道場なのだ。(さらにつづく)」 維摩経 石田瑞麿訳

これは、有名な「六波羅蜜」を言われたところです。「波羅密」とは、到彼岸~彼岸に至る方法、つまり仏教の目標である「涅槃寂静」の境地に至るための実践徳目です。「涅槃」というと一般には死ぬこと、往生成仏のことだと思われるかもしれません。それは完全なる涅槃と言われるものではありますが、原始仏教では、涅槃は悟りの境地を言うのです。拙僧が、ブログのサブタイトルで「願わくば衆生と共に彼岸に至るのだ!」と言っているのもこのことで、即身成仏=悟りを指しており勿論死ぬことではありません。

六波羅蜜
一.布施(ふせ)波羅密=檀(だん)波羅密とも呼ばれる。自分の財産を施したり、真理を教えて迷える人を導いたり、人の恐怖を除いて安心を与えたりすること。維摩さんが言われるように、返礼を期待しないところが大切です。お布施をあげるからオレの願いを聴いて叶えてくれと言うのは、布施という徳を積んだことにはならず、従って願いが叶えられることはないのです。仏様に取られっぱなしですよ。気をつけましょう! また、お金や物を寄付することだけが布施でもありません。優しい言葉でも笑顔でも、それが他者のためになるのものであればよいのです。

二.持戒(じかい)波羅密=規則を守り、甘えず自分を律して生活すること。
拙僧も出家するとき、受戒の儀式に参加しました。これは命令として神仏から与えられるものではなく、自ら戒を守りますとお誓いするものです。残念ながら坊主でも強盗になって郵便局に押し込むような者がいます。どのような事情があるにせよ、このような不心得者のことを破戒坊主というのです。彼も今まで積んできた徳をすべて支払った上に、不徳という借金まで背負ってしまったことになります。あの世に行かずともこの世が地獄です。怖いですね。

三.忍辱(にんにく)波羅密=降りかかるあらゆる苦難に動ぜず、耐え忍ぶこと。この段階になると、拙僧はまだコメントできる立場にありません。降りかかる悪魔や魔女?と日々戦っているのです。応援してね。

四.精進(しょうじん)波羅密=いつでも、仏道を極めようとする修行を怠らないこと。拙僧は、まだまだ。

五.禅定(ぜんじょう)波羅密=瞑想などにより精神を統一し、いつも心を穏やかな状態にすること。まだまだ。

六.智慧(ちえ)波羅密=般若波羅密とも呼ばれる。真理を見極め、悟りを完成させる知恵を身につけること。まだまだ。


ここまで修行して至ることができる涅槃寂静は、仏教の基本命題である「三法印」の一つです。仏教は、お釈迦様の教えをもとにして、二千五百年に渡って多くの仏教者達が発展させてきたもので、数え切れないほどの教えの集大成です。そこで本物と偽物を見分ける印(しるし)を三つの命題として提示しています。これを三法印といいます。有名な「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」というキーワードに反するものでなければ、仏教の教えとして認めようというのです。

諸行無常
「一切の形づくられたものは無常である」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。(法句経第277偈)

諸法無我
「一切の事物は私ではない」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。 (同279)

涅槃寂静
諸行無常と諸法無我という二つの真理を体得し、欲に囚われた執着心を捨て去れば、本当の平安な境地が訪れるという真理

これに「一切皆苦」を加えて四法印というときもあります。
「一切の形づくられたものは苦しみである」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる。 (同278)

長くなってしまいましたね。本日はここまでにします。
とにかく「日々の生活の中に道場がある」ということが本日の教えです。

合掌 観学院称徳
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# by kangakuin | 2005-07-16 14:19 | 諸尊の言葉