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ご無沙汰でした

最近は、以下のブログで毎日更新しております。
ご覧いただければ幸いです。


そうだ坊主になろう!~ヒロ伊藤流仏弟子修行
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合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2006-03-17 00:23 | 称徳・雑記
それを言っちゃあおしまいよ~怒りと言葉

「言葉の怒りを守りて、言葉を慎むべし。

 言うべからずを棄てて、言うべきを言うべし。」


                          (『法句経』第232偈)



ついつい小言の一つも言いたくなる時がある。
しかし一時の激情に駆られて怒りを言葉にして発してはならない。
そうならないようよく守り防ぎ、言葉を慎まなければならない。
言ってはならない言葉を棄てて、正しく穏やかな言葉で言いなさい。


柴又の帝釈天・経栄山題経寺の檀家であった信仰心の篤いはずの
フーテンの寅さんの実家「くるまや」では、
久しぶりに帰った寅さんとおいちゃんや隣のタコ社長がよくケンカをしていましたが、
そのきっかけが「それを言っちゃあおしまいよ」でした。
心の底では相手を気遣う家族なのですが、ちょこっと発した言葉から
怒りが生じ、投げ交わされる言葉の怒りがこうじて、最後は暴力沙汰になり、
寅さんはまたまた家出するというお定まりのシーンが毎回必ず繰り返されました。

山田洋次監督は、何故こうまで執拗に繰り返したのか?
それは、またかと笑っている私たち誰もが、
同じようにそういうシーンを繰り返しているからではないでしょうか。
些細なことでもそれが言葉になってしまうと、幸せな人間関係を破壊することもあるのです。

「生まれるとすぐに、人の口の中には斧が生じる」と、お釈迦様。だからこそ
「言葉の怒りを守りて、言葉を慎むべし。
 言うべからずを棄てて、言うべきを言うべし。」と
常に気をつけなければならないと教えているのです。

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-11-29 17:42 | お釈迦様の言葉
賢者とは?~誰でも自分をアホとは思わない

「もしも愚者が愚であると知れば、すなわち賢者である。

 愚者であってしかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる。」


 (『ダンマパダ 法句経』第63偈 中村 元訳)



こんなに有名な言葉、真理も多くはないでしょう。
それが法句経という釈尊の説いた真理に近いとされる最古層の
仏典から発すると知らない人でも、知っているし、理解できる。

しかしこんなに簡単で、しかも実践が難しい真理も少ないようです。
分かってはいても、誰でも自分をアホとは思わないし、思いたくもない。
馬鹿にされたり、見下されていると感じると腹を立てる人が多いのが
その証拠です。論争をすれば勝ちたいと思う。勝ち負けの問題ではないはずが
いつも間にか議論はその本質を離れて、どちらがアホかの決定戦に変質していく。


「もしも愚者が愚であると知れば、すなわち賢者である」に
あやかりたいのか、本心からか、仏教者や、特に高僧たちは自分を
「愚者」「凡夫」、果ては坊主頭まで持ち出して「愚禿」などとまで呼んで、
自分を蔑み、下に置こうとする。相当我の強い宗派の開祖たちでさえも、
競って自分を愚者扱いしていて、自虐的ですらあります。

でもこれは、ちょっと間違えれば
「愚者であってしかも自ら賢者と思う者こそ、愚者と名付けられる」と
なってしまうのです。

要は、お釈迦様の言葉の真意は「謙虚であれ」ということだと思います。
常に自分自身を、自分の言動を省みて、その元となった自分の心をよく見つめ、
本心から自分は思い違いしていないか、間違っていないか、
愚かな言動や愚かな心を持っていないか検証して、正していくことが必要だよ、
と言うことではないかと思います。

けっして、自虐的になったり、自分をアホ扱いして認めない、という態度を
良しとしているわけではありません。むしろ
「自分をもっともっと大切にしなさい。そして自分を大切に思うように
 他人や生きとし生けるものも大切にしなさい」ということなのです。

合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-11-03 23:45 | お釈迦様の言葉
歳を重ねるだけで偉くなれるのか?

「頭が白髪になったからといって、

 このことだけで彼は、長老(おさ=知恵のある尊敬に値する人)

 とはいえない。これはただ空しく老いただけの人と呼ばれる。」

 (『法句経』第260偈)


特に東洋では孔子の儒教をはじめとして「長幼の序」が生きていて、年上の人を敬うことが美徳というか、人として当然のこととされています。そこで年長者が年少者を疎んじたり馬鹿にしたり、年功序列の結果として上位にあるものが、部下を疎んじたり馬鹿にしたりして、こき使う。先輩は後輩を奴隷のように考え、人格さえ無視することが、現代の社会、職場、学校、地域やコミュニティなどで横行しています。

前のバブル崩壊で企業や日本経済を未曾有の危機に陥れた責任のある大企業や銀行の経営者達が、地位にしがみついて老害をさらしつつ損失を拡大し、中には歴史ある大会社を倒産にまでできたのは、年長者や目上の者を批判、弾劾できない、我が国社会の欠陥にも思えます。

しかし「これは間違いだ。歳を重ねただけで彼は長老とはいえない」というのが、お釈迦様の教えです。「そんな人は、ただ空しく老いただけの人だ」というのです。キビシイですね。ただのアホだというのだから。最近私もだいぶ白髪が多くなってきたので、他人事とは思えません。もっとも孔子様の長幼の序だって、礼儀をわきまえ下から上を敬えという意味であり、上から下を疎んじたり馬鹿にしたりしてよいということではありません。むしろ君子は「仁(=博愛、慈しみ)」をもって、下にやさしくしなければならないのです。「老いては子に従え」とまで言い残しています。これは年齢の上下だけでなく、地位の上下にも当てはまりますからね。

人間、若いうちは勉強しなければだめ。そして歳をとればとるほど、勉強しないとだめなようです。それではじめて「知恵のある尊敬に値する人=長老」と呼ばれる資格があるのです。人生の後輩達に嫌われ見捨てられないよう、徳のある人を目指しましょう。うかうか歳ばかりとっていられませんよ。高齢化社会の今だからこそ、これは大切な教えになっているのかもしれません。もちろん机にしがみついて本を読むだけが勉強ではありませんので、ご注意くださいね。

読者各位のご健闘をお祈りして  合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-10-15 14:02 | お釈迦様の言葉
何故「心」があるのか?「心」はどこから来たのか?

【ご質問】
すごく不思議です。
人間には何故心があるのでしょうか?
 心はどこから来たのでしょうか?
 何故この心にこの体があるのでしょうか?
 お釈迦様はどのように答えておられますか?


【お答えになるかどうか】
何と難しいというか、大上段からの直球の質問ですね。寺もっちゃん。


「あらゆるもののなかで、先立つものは心である。
 あらゆるものは、こころを主とし、心によってつくりだされる。
 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。
 荷車を引く牛に車輪がついていくように。」

 (『法句経(ダンマパダ)』第1偈 A・スマナサーラ訳より)


仏教は、欧米では19~20世紀初めにかけて西欧列強によるアジアの植民地化が進展し交流が盛んになることで伝えられ、宗教としてではなく「心の科学」として捉えられていました。キリスト教神学と比べて、その先進性と精密さを持った体系的学問として、しかもイエス様より500年も前の、ギリシャの哲学者たちや中国の孔子などとほぼ同時代に生きた“ゴータマ・ブッダ”お釈迦様の存在が驚きの目で迎えられました。考古学・歴史学者、文献史学者、文化人類学者は当然として、ニーチェのような哲学者やユングのような心理学者、シュタイナーのような教育学者・神智学者も強い影響を受けたようです。勿論、キリスト教から見れば彼らは異端扱いでしたが。現代では中共のチベット侵攻により亡命したダライ・ラマなどによるチベット密教や禅宗をはじめとした我が国仏教の布教が欧米でインテリ層に受け入れられ、スピリチュアルやニューエイジといった新しい精神・信仰のカタチにもまた仏教の強い影響が認められます。80年代まで生きた精神分析のラカンが、「禅マスター」と呼ばれていたそうです。

横道にそれましたね。それではご質問へのお答えと行きましょう。

人間には何故心があるのか? → 心があるから人間なのです。
何故この心にこの体があるのか? → この体があるから、この心が生まれたのです。
これは、十二縁起(=無明→行→識→名識→六処→触→受→愛→取→有→生→老死)で明らかです。赤ちゃんが生まれて成長し、やがて老いて死ぬまでの、人間の一生を考えれば分かりやすいと思います。まず体が生まれ、いろいろな刺激を受けながら心が育てられ、残念ながら煩悩が生じ、苦も現れていくのです。十二縁起は長くなるので、そのうち機会があればご説明します。

では、心はどこから来たのでしょうか?
人間は、多くの生物の中で唯一、その心の働きによって、過去・現在・未来の三世という時間軸を認識できるものです。過去をふり返って思い出に浸り、未来のあることを信じて生きることができます。他の動物にも記憶はありますが、彼らの意識の中には今しかありません。人もほんとうは他の動物と同じなのですが、意識を心に進化させて、自他を区別する自我をつくり、時間軸を意識しながら、文化文明を発達させることができました。が、同時に苦悩と共に生きることにもなったのです。これも十二縁起ですね。

では、心とは何でしょうか?
仏教では「心は、“心”と“意”と“識”という三つの働きからできている」と考えます。「心」は主体、自己自身、「我思う、故に我在り」の「我」ですね。「意」は考えること、「我思う」働きです。「識」は判別・分別すること、「故に我在り」と決める働き。前述のラカンは「我、思わぬ故に我あり」と言ったそうですが、思わぬだけで同じことです。
さらには、心を八識=顕在心(眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識)+潜在心(末那識+阿羅耶識)に分けて考えていきます。顕在心は感覚器官から得られるものと、そこから生まれる意識です。潜在心、心理学でいう潜在意識の末那識は「無意識の自己愛の領域」で、煩悩である自我意識(我痴、我見、我慢、我愛)が隠されており、阿羅耶識は「根源的な心の作用」で、末那識から刺激を受けながら、生きているという意識を一瞬一瞬つなぐ意識ということで、人間の考え方や行動を生み出す基本です。ここに仏性があり、悟り(覚り)を得ると、智慧(=般若=仏の悟った境地)が現れます。このように煩悩を捨て去り、心を静かに治めて阿羅耶識を目覚めさせ、善に保つのが本来の仏教の目標です。

もっとも「無自性」~心という実体はなく「空」だというのが、仏教の究極の段階の教えです。この辺は般若心経の現代語訳でも読んでください。


「心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するままにおもむく。
 その心は制御(コントロール)したほうがよい。
 よく制御した心は、安らぎをもたらす。」

 (『法句経(ダンマパダ)』第35偈 A・スマナサーラ訳より)


合掌 観学院称徳
# by kangakuin | 2005-09-16 16:44 | よくある質問お答え